「過信と鵜呑みは禁物」とは言うものの、過信も鵜呑みもできない人生は精神的にツライと気付いた話

私が初めてインターネットに触れたのは、1990年代が終わりに近付く頃でした。
そこから現在までずっと、オタク関係でもそれ以外でもネットと付き合い続けています。

ネットを使い始めたばかりの頃は、某匿名掲示板で好きな二次元作品のタイトルを検索して、出てきたスレッドを手当たり次第に読みまくっていました。
実生活でディープなオタク話ができる相手があまりいなかった私は、とにかく自分の好きな作品のことを語っている書き込みを読みたいと思い、毎日深夜までネットをしていました。

ですが、面白い書き込みもある一方で、発売前の作品に関するデマ情報や、まるで公式設定のように語られるウソ設定などにも多く出くわしました。昔の私はそういうデマを本気で信じてしまい、あとでデマだったと知ってガッカリすることもよくありました。

そういう経験を重ねるうちに「何事も過信と鵜呑みは禁物」という考えが育っていきました。
そして現在、相変わらずほとんど毎日ネットを見る生活をしていますが、ネットで見た情報に本気で反応することはまず無くなってしまいました。

良い情報にしろ悪い情報にしろ、まずは「デマや釣りかもしれない」「こちらの感情を意図的に操作するための文章かもしれない」と考えて、そのまま受け入れることができなくなりました。

これは「賢くなった」と喜んで良いのでしょうか?
最初は私も自分が賢くなったように感じてドヤっていたのですが、長年この状態が続くと「これで本当に生きていて楽しいのか?」と疑問を持つようになりました。

だって、人の言うことを何も信じられないんですよ。
どんな情報を見ても、まずは疑うことから入るため、心から楽しめないのです。

デマを信じない人は「何事も過信と鵜呑みは禁物」だと常日頃から思っているでしょうし、今の私もそうですが、何も鵜呑みにできないことを寂しいと感じたことはありませんか?デマを信じるのは愚かなことですが、かと言って何を見ても100%信じきれないのもどうかと思います。

人から「これは〇〇だよ」と言われて「へえ~そうなんだ!」と無条件で信じて、心から喜んだり悲しんだり怒ったりできるということが、どれほど尊いことだったか思い知らされています。
今は何もかも話半分にしか聞けず、心の中にガラス板が一枚挟まっているような感覚です。

確かに「何事も過信と鵜呑みは禁物」で、それは正しいのですが、何も信じられないのも少し悲しい気がするなあという話です。こういう時は、SNSのデマに本気で踊らされている人達が少し羨ましくなるかも?…いや、やっぱりそれは無いわ(´・ω・`)

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コメント

  1. 白ナス より:

    楽しく拝見しました。仕事であれ恋愛であれ、そしてオタ趣味であれ、我々は没頭するものを探しているのかもしれませんね。
    自カプの絶対正義を信じて疑わなかったあの頃、原作厨公式カプ派の人たちの迫害(あり得ないとか言われてるだけですが)を受けながら、これでもかと創作していました。
    いまは日常をやり過ごすだけであり、好きも怒りも自身の正義に燃えるのも、若かったから出来たんだだなと懐かしく思うのみです。
    もう一度、何かにハマりたい……

  2. ヒロコ1号 より:

    >白ナスさん
    若い頃は得た情報をそのまま信じることに何の疑問も持ちませんでしたが、正直そちらのほうが幸せだったのかもと、歳を取ってから初めてそんなことを考えるようになりました。
    疑ってばかりだと心が疲れるだけで良い気分になれないし、誰とも仲良くできません。

    同人活動にしても、傍から見て変だったとしても自分の信じるものを表現していた頃が一番元気でいられました。そして、そこまでハマっていたものに冷めた後、再び別のものにハマるのはとても難しくて、もう死ぬまで静かにしているしかないような気がしているのです。